糖尿病を知れば糖尿病なんて怖くない。怖いのは糖尿病に対する無関心。糖尿病に関心を持つことが糖尿病対策の第一歩。

30歳で糖尿病に32歳でインシュリン自己注射のサラリーマンの教訓 - 糖尿病奮闘記 -

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糖尿病患者の視点から糖尿病にならないため、また悪化させないために気を付けた方がいいことを糖尿病患者の日常の生活の出来事を交えながらお伝えしています。
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一度、増えてしまった体重はなかなか元に戻せません。簡単に戻す事ができたら世の中から「これであなたも痩せる事ができる簡単ダイエット!!」というキャッチフレーズが消えてなくなります。


また、体重が増えたときの生活はその増えた体重を維持するような生活をしているはずです。維持していればまだ良いものを、さらに体重を増やしていくような生活をしている場合もあります。


例えば、パチンコが大好きなパチンコ暦は20年以上のベテランの人がいたとします。その人はパチンコ攻略本を丹念に読み、必勝法をぶら下げて休みになると朝からパチンコ屋へ行きます。


一般的に言われているのがパチンコの還元率は85%。1000万円使っても、お店は850万円しか戻してくれません。その戻してくれる850万円を遊びに来ている人の間で争奪戦を繰り広げるのです。


この人は攻略本を読んでいるおかげで、なかなか優秀で3回に1回は勝利します。勝つ時の喜びが心に強烈に残っていて、「俺にはパチンコの才能がある」と自画自賛。しかしトータルでは負けています。


パチンコで小遣いを稼ごうと思っているこの人が、このままパチンコを続けていけば、お小遣いを稼げるようになるでしょうか?


もちろん答えは「NO」です。短期的にお小遣いが増えたとしてもトータルではお小遣いは減るのです。何かを変えなければ・・・。


少し、強引な例えかもしれません。どうしても、お伝えしたかったことは「短期的にプラスになったとしてもトータルではマイナスになる」ということです。


「血糖値が高いですよ」と言われた直後は誰でも気をつけます。


しかし、自覚症状がないのが糖尿病です。


気を付けながら、摂生をしながら、忍耐しながら生活を送ります。いく日も、いく日も。しかしながら、その効果を実感する事はできません。


どんなに頑張っても・・・。


となると、その生活を持続するのは困難になります。いずれ、もとの生活に戻ってしまいます。その生活が持続しない限り、短期的に規則正しい生活をしたとしても、結果的にトータルではマイナスになるのです。


なぜ、そんな事がいえるのか?


それはわたし自身がそうだったからです。わたしの主治医も一時は「あなたの頑張りはわたしが担当した患者の中で、とび抜けて素晴らしいです。一度、糖尿病患者に講演してもらいたいぐらいです。」と言われた経験があるからです。


このお話は後でお話しするとして、ここでは、着実に糖尿病への階段を歩んで行った過程をお話します。その過程の中で共感するところがあれば、それは非常に危険ですので気をつけてくださいね。


では、話を当時のわたしの生活に戻します。


おかしな生活を続けながらもなんとかプロジェクトを成功させ、会社からのありえないくらいの温情を受けて、無事に大阪も戻ってくることができました。


「少しでも早く大阪に戻って父親の面倒を見なくてはならない」という願望がかなったのですが、願望がかなったら、なんかそれでひとつの達成感を味わってしまったのです。


達成感を一度味わったら、その課題は既にクリアした気持ちになります。本当はこれから面倒をみるということが勝負なのに。


ここから雑談になるのですが、当時のわたしは(いまのその傾向があるのですが)どちらかというと白と黒をはっきりさせる性格でした。別の言い方をすると、自分が納得できる事か、納得できない事かをはっきりさせていました。


− 納得しない事があったらどうしたの?(天の声)

− どうもしません。納得しない事でも周りに気づかれないように
  納得したふりをしていました。
  ずっと自分の心の中で葛藤していました。(わたしの声)

− 何を葛藤していたの?(天の声)

− 納得していない事を周りに伝えるかどうかを。(わたしの声)

− なぜ、周りに伝えなかったの?(天の声)

− 協調性を大切にした? 理解のあるフリをした? 嫌われたくない?
  すべて当たっているようで、ちょっと違うような気もします。
  これはいまでもわたしの心のテーマです(わたしの声)


このわたしの気持ち・考えを表す出来事があります。


それは父親の見舞いです。東京にいるときは毎週のように大阪に戻ってきて見舞いをしていました。平日は深夜まで仕事をしていたので、土曜日の早朝に大阪に戻り、そして日曜日の最終の新幹線で東京に戻ってくる。


このときの自分は自分の中でも最高に頑張っていて、輝いていたと自負しています。


ところが、大阪に戻るとなんか近くにいるという安心感で、見舞いの回数が減りました。見舞いに行けなくなったのではなく、行かなくなってしまったのです。その理由は・・・


なんてことはない。大阪に戻ってきたので友人達と遊びに行くことが多くなったのです。


しかし、このときのわたしは、見舞いに行かないということにひどく罪悪感を抱いていました。さらに東京にいるときはどんなに大変でも続けて見舞いに行っていたのに、一度、サボると次に行こうと思ったときでも、なぜか理由を見つけて行こうとはしませんでした。


なぜ・・・?


今思うと、見舞いに行かないという自分の行動に納得できず、それゆえ、納得できない事はあまり考えたくない。で、見舞いに行かないという納得できない行動は忘れたい。そこで見舞いを遠ざけた。


おかしな話でしょう?


たかが見舞いひとつで何をそんなに考える必要があるのか?


まったくもって、そのとおりです。


見舞いに行くということを深く考えず、見舞いに行きたいという気持ちだけで行動しておけば、それで済んでいたのです。


忍び寄る糖尿病の魔の手でお話をした「しなければならない」という精神的に一番大きなプレッシャーを与える考え方をしていたのです。



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